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取材:2013年7月
鉄路が奏でる日常の調べ。夕暮れの函館駅から、歴史ある出湯の街へ
夏の夜の帳(とばり)が,北の港町をゆっくりと藍色に染め上げていく。
2013年7月。涼やかな海風が街を吹き抜ける昼過ぎ,私はJR函館駅の駅前に立っていた。夏休みの旅を続ける高校生の私は,どこか異国情緒を漂わせるこの街の,もう一つの日常に触れたいと願っていた。目指すは,北海道でも屈指の歴史を誇る名湯「湯の川温泉」。近代的な函館駅舎を背に,レトロな電停へと歩みを進めると,アスファルトに埋め込まれた2本のレールが,まっすぐと伸びていた。
函館の街を縦横に走る「函館市電(路面電車)」は,明治26年(1893年)に開業した馬車鉄道を前身とし,大正2年(1913年)に東日本で最初の電動客車として運行を開始した,一世紀以上の歴史を持つ市民の足である。
かつて北前船の寄港地として,また日本最初の国際貿易港として栄えた函館。その激動の歴史を見守り続けてきた市電の車輪は,今も変わらず街の鼓動を刻み続けている。私が乗り込んだ車両は,長年愛されてきたクラシックな700形。独特の重厚なモーター音を響かせながら,なばの街を滑り出した。
ガタゴトと小気味よい音を立てて走る車内には,買い物帰りの主婦や。,活動終わりの同年代の高校生たちの姿がある。観光地としての華やかさのすぐ隣に息づく,地に足のついた人々の営み。それらが車窓を流れる古い洋風建築や赤レンガの街並みと混ざり合い,まるで短い短編小説を読んでいるかのような,不思議な情緒が私を包み込んでいった。
■ 函館市電 旅のミニ知識(2013年7月現在)
函館駅から湯の川温泉までは,市電2系統または5系統の「湯の川」行きに乗車し,約30分。運賃は大人230円である。乗車時に後ろの扉から整理券を取り,降車時に運賃箱へ投入する支払方式。1日何度も乗り降りするなら,600円の「市電1日乗車券」を車内で購入するのが断然お得である。
湯の川の地に薫る,350年の歴史と湯けむり
松風町・千歳町・五稜郭公園前。主要な電停に止まるたび,車内の乗客は少しずつ入れ替わり,窓の外の景色は徐々に夜の装いを深めていく。市電が大きく右へとカーブを切り,終点に近い「湯の川温泉」電停に到着する頃には,空は完全な漆黒へと変わり,沿線の温泉旅館の暖かな灯りが水面のように夜の街を照らしていた。
湯の川温泉は,承応3年(1654年),松前藩の藩主・高広(幼名・千勝丸)が重い病に罹った際,この地の湧き湯に浸かったところたちまち全快したという伝説に始まる,道内最古級の温泉地である。
明治時代には函館の奥座敷として,箱館戦争の際には榎本武揚率いる旧幕府軍の傷病兵も療養に訪れたという。電停を降りると,潮の香りに混ざって,どこか甘く,どこか懐かしい硫黄の匂いが鼻先をかすめた。高校生の私は,歴史の教科書に登場する偉人たちも同じようにこの湯煙を見つめ,身体を休めたのだろうかと,夜の温泉街を歩きながら感慨にふけっていた。
歴史ある高級旅館の壮麗な門構えを眺めながら,私がこの日の目的地として定めていたのは,もっと市民の生活に寄り添った、親しみやすい佇まいの温泉ホテルであった。
「ホテル雨宮館」の黒き名湯。五感をほどく至福のひととき
電停から数分ほど歩き,交差点の角に立つアットホームな外観の建物に到着した。「ホテル雨宮館(あめみやかん)」である。
ここは,観光客はもちろんのこと,地元の函館市民からも「我が家の風呂」のように深く愛され続けている,日帰り入浴が可能な温泉ホテルだ。フロントで入浴料(2013年7月現在,大人400円という,高校生の財布にも非常に優しい価格である)を支払い,どこかノスタルジックな長い廊下を渡って大浴場へと向かう。
■ ホテル雨宮館 日帰り入浴の魅力
湯の川温泉の中でも珍しい,加水・加温を一切行わない「源泉100%かけ流し」の天然温泉を楽しめるのが最大の贅沢。泉質はナトリウム・カルシウムー塩化物泉で,芯から身体が温まる名湯である。
脱衣所で衣服を脱ぎ,湯殿の扉を開けると,豊かな湯気が一気に私を包み込んだ。
浴槽に満ちていたのは,わずかに茶褐色を帯びた,透明度の高い美しい湯であった。湯口からは,こんこんと熱い源泉が絶え間なく注がれ,贅沢に床へと溢れ出している。身体を洗い,そっと湯船に足を浸たす。
「あつっ……」
思わず声が出るほど,湯の川の湯はキリリと熱い。しかし,ゆっくりと肩まで沈み込むと,その熱さは心地よい刺激へと変わり,一日中リュックサックを背負って歩き回った肩や足の疲れが,湯の中にじわじわと溶け出していくのが分かった。
じっと湯面を見つめる。窓の外から時折聞こえてくる,市電の遠い警笛の音。「ガタゴト」というリズミカルな振動が,かすかな残響となってこの湯殿の静寂に響いているようだった。旅の緊張が,お湯の温もりとともにほどけていく。五感が静かに研ぎ澄まされるような,小説のクライマックスに似た極上の充足感が,そこにはあった。
夜風に吹かれて。再びマルーンの軌道へ戻る
温泉を存分に堪能し,湯上がりに冷たい牛乳を一本飲み干して,ホテルの外へと出た。
夜の冷たい函館の風が,火照った身体に何とも心地よい。髪を揺らす夜風を浴びながら,私は再び「湯の川温泉」の電停へと歩みを戻した。
ホームに佇むと,遠くからヘッドライトの2条の光が近づき,夜の闇を切り裂きながら市電が入線してきた。
再びマルーンやレトロな色彩をまとった車両に乗り込み,座席に腰掛ける。窓ガラスには,温泉でほんのり赤くなった自分の顔と,遠ざかっていく湯の川の街灯りが映っていた。
通り過ぎれば,ただの温泉街への往復。しかし,路面電車という100年の歴史を持つ揺りかごに身を委ね,地域の人々に混ざり,彼らが愛するお湯に身を浸したことで,私の旅は,単なる観光を越えた「函館の呼吸」を感じる特別なものへと変わっていた。私はガタゴトと規則正しく響くレールの音を子守唄代わりに聴きながら,今夜の宿が待つ五稜郭へと,ゆっくりと運ばれていくのである。
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